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漫才とコントの違いは?M-1王者マヂカルラブリーさんの漫才をもとに解説

連載
公開日:2021年10月8日

執筆:吉松ゴリラ

SHUプロモーション所属。宮崎大学大学院主席。もともとコンビで活動していたが、解散後ピンへ転身。「激レアさんを連れてきた。」「新春おもしろ荘」「ガキの使いやあらへんで!」「ウチのガヤがすみません!」など多数出演。

2020年M-1グランプリ終了後、その王者に輝いたマヂカルラブリーさんの漫才が異質であった事から、既に翌日には漫才論争が巻き起こっていた。

「あれは漫才ではない、コントである」という意見が続出し、それに伴い「”漫才”とは何か?」「その定義とは?」という論争に発展した。

この論争の加熱は「マヂカルラブリーさんへの批判」というより、日本の風物詩となったM-1グランプリへの注目度の高さと言ってもいいものであったが、果たして漫才とコントの違いとはなんだろうか。

今回のコラムを読んで頂ければ、
・漫才とコントの違い!
・マヂカルラブリーさんの漫才が「漫才ではない」と言われた理由!
・その他の、「漫才」とされる定義!
を、ご理解頂ける。

是非、最後までご一読頂きたい。

漫才とコントの違いとは

実は漫才とコントには、明確な定義が無い。教科書のようにはっきりと明示されている訳でもなく、また各時代や個人個人のお笑い論によって変化する。

ぶっちゃけそんな定義があれば漫才論争の時も、芸人数名が「こういうのが漫才だ」とTVでレクチャーすれば済む話で、その明確な定義がないからなんだかんだと論争が長引いた。

なので「全時代」「全芸人」「全お笑いファン」が納得する線引きとなると、漫才とコントの違いは「センターマイクがあるかないか」となる。※詳しくは下記記事を参照

漫才?コント?現役お笑い芸人が教える初めてのネタの作り方

しかし、定義がないという事は、各々の主義主張はそれぞれの美学に基づいているとも言え、美学が基になっているからこそ、その線引きはお互い簡単には譲りづらくなる。

漫才論争が長引いた理由の一つには、そのような背景も存在する。

マヂカルラブリーさんの漫才が「漫才ではない」と言われた理由

マヂカルラブリーさんの漫才が一部お笑いファンから「漫才でない」と否定された理由は、以下2点。

【漫才じゃない派の意見】
・会話となる掛け合いが、極端に少ない
・コントインしてから、戻らない

「漫才は”その場で出会った二人の立ち話の延長”が理想である」と評される事が多く、特に伝統を重んじるお笑い通は「そのコンビならではの言葉の掛け合い」を重視する。

「それって例えば、誰みたいな漫才?」と言われたら、上方漫才界の至宝である中川家さんや、若手ではミキさんをイメージしてもらえると分かりやすい。

他にも知りたいという人は、「上方漫才大賞」でググってもらって、Wikipediaなんかでその受賞者を見てもらえると「なるほど、こういうことね」と大枠が掴めるかと思う。

「上方漫才大賞」は、関西在住のお笑いファン以外にはあまりピンとこないかもしれないが、漫才関係の賞の中では最も伝統があり、べらぼうに権威のある賞である。

そして、その受賞者たちのほとんどが、言葉のやりとりでの「会話」によって成立する漫才を行なっている。

より具体的な、争点となった部分の解説

ここでは、マヂカルラブリーさんのネタを簡易にご紹介した上で、どの部分が「漫才ではない」と言われたのかをより具体的に解説する。

マヂカルラブリーさんの漫才:1本目「フレンチ」

マヂカルラブリーさんの漫才の多くは、ある一連の流れを1ブロックとし、同様の流れを何度もなぞりながらボケるというもの。

この「フレンチ」のネタもその一つ。

内容としては、フレンチのテーブルマナーでナイフとフォークの使い方が分からないというボケの野田さんに対し、ツッコミの村上さんがマナーの間違いがあったら注意してあげるというネタ。

ネタの構成は、「野田さんが入店してから、ナイフとフォークを置くまで」の一連の流れが1ブロックとなり、そのブロックを数度繰り返しながらボケる。

この最初のブロックが、「ガラスを突き破って入店する」というツカミから入り「ナイフとフォークを置く」くだりまでだが、この間ずっと野田さんの「動きそのもの」をボケとする事で「常にボケ続けている」という状態を作っている。

後述するがこの部分が漫才の革命であり、そして革命であったからこそ「漫才でない」と言われた部分でもある。

ちなみに「フレンチ」の漫才はこのブロック終了後、野田さんが村上さんの元へ戻り、間違っていた部分を改めて指摘される。そして次のブロックに進むという流れ。

蛇足

※蛇足なので2017年、M-1初出場の時の「野田ミュージカル」のネタ内容を知っている前提で解説する。

ちなみにこの「ボケが動いて、それにツッコむ」というパターンを繰り返すという構成自体は、2017年M-1初出場の時の「野田ミュージカル」のネタと同様。

しかし、「野田ミュージカル」の場合、野田さんの動きの部分が当時それほどウケてはいない。なぜならこの漫才において、動き自体は「フリ」だから。後の「観客じゃねーか!」のツッコミの為の「フリ」であり、「ボケ」でなかった。

もちろん「フリ」とはいえ抜群におもしろい部分であるので、この箇所がバカ受けするライブも絶対にあったはずだが、とにかくその動きを派手で分かりやすくし、さらに明確に「ボケ」とする事で、「フレンチ」のネタはよりウケやすいように構成されている。

マヂカルラブリーさんの漫才:2本目「つり革」

「電車に乗る時、つり革につかまりたくない」と主張する野田さんが電車に乗り、それを村上さんが見ているというネタ。

1本目の「フレンチ」以上に、掛け合いはない。一方的に野田さんが揺れる電車内の乗客を演じ続け、その動きに対して村上さんがツッコミ続ける。

考え方としては「フレンチ」の「1ブロックを長くし漫才の最後まで続ける」事により、「ブロック終了後に野田さんが村上さんの元へ戻る、”つなぎ”の部分をオールカットしている」というネタ。

これがどういう効果を及ぼしているかというと、まず「フレンチ」と同じく、ネタ中ずっと動きの部分にツッコんで「常にウケ続ける状況」が作れる。

更に「動きボケ」が無くなるつなぎ部分すらカットしているので、「ネタ中ウケていない時間がない」という異常なネタに仕上げる事ができる。

「漫才じゃない」と言われた部分

上述した通り「漫才の革命」の部分と、「漫才じゃない」と言われた部分が同じ。なので先に、マヂカルラブリーさんのネタのどこが革命だったのかを説明しよう。

今までも「動きボケ」というボケ方はあったが、それは漫才中20個も30個もあるボケの1バリエーションとして使われていた。
要は「1つの動きボケに対して、1ツッコミ」がワンセット。あくまでボケは1つのツッコミを誘発するものである事が基本。

しかし、マヂカルラブリーさんのネタは、「動き自体がボケである」という状況を続ける事で「常時笑いどころの状態」を作る事に成功している。

通常の漫才は「ボケゼリフを言った瞬間」が笑いどころであるのに対し、「つり革」のネタは「どの部分を切り取ってもボケ」であり「どの部分を切り取っても笑いどころ」である。ずっと動いてるので。

結果、ファイナルラウンドではツッコミが入る入らないに関わらず、常時途切れる事なく笑いが起き続けていた。これは「全くお互いのセリフがない中でも笑いが起き続けている状況」な訳で、漫才中こんな現象が起こるのはかなり異常である。

「ネタ中、笑いが起きている時間はどれくらいであるか」という観点で見た時、M-1史上ブッチ切りで一番のネタ。

じゃあなんで「漫才じゃない」と言われたかというと、正にその動きボケの部分。

この動きボケ中、掛け合いがない事は上述した通り。
そしてコントインしてから、最後のオチまでコントから戻らない。常時笑いを起こし続けるために、野田さんは「つり革につかまらず、揺れる電車に翻弄される乗客」を演じ続けている。そう、「演じ続けている」。

ツッコミの村上さんの言葉に反応せず、また、ほとんど自身の言葉も発さず、延々と揺れる電車に翻弄される乗客のマイムをしている。この一切素に戻らないマイムが、一部お笑いファンに「二人の立ち話」ではなく「完全に芝居」と見られた。

結果、このネタは「漫才の会話劇」ではなく、「終始演技だけをしているコント」であると位置付ける人がいたという感じだ。

賞レース用漫才について補足

M-1等の賞レースでは、「漫才の作品性」も重視される。漫才の「伝統」と「進化」、その両輪を持った最高峰の大会という位置付けであるからだ。

なので、ライブシーンではOKでも、賞レースでは不可といった現象も起こる。

過去にテツandトモさんがM-1に出場した際、審査員に「お前らここへ出てくる奴じゃない」と言われたのもそういう理由。

その他の、「これが漫才だ!」とされる主張

ここでは、個人個人の美学とも言える「これが漫才だ!」という主張を記載する。

漫才コントの場合、ツッコミは素の自分の状態に戻ってツッコめ

「漫才とは”その場で出会った二人の立ち話の延長”が理想である」の概念から、漫才コントといえど完全に「コント」として演じてはならないという主張である。

この考え方では、漫才コント中のプレイヤーの関係性は、「ある役柄をやってみたいという人間」と「それに無理矢理付き合わされている人間」の関係性である。

つまり、本当の「医者と患者」の関係性であったり「旅行客と女将」の関係性ではない。

なので、相手が間違った事をしても「医者」や「女将」の立場としてツッコむと関係性的におかしいだろとなる。
「無理矢理付き合わされている素のお前自身」としてツッコめよ!という考え方だからだ。

この主張をする芸人・作家は結構多く、NSCでこう習ったぼくは個人的には賛同できる主張だ。

ただ、サンドウィッチマンさんのM-1ネタが、コントの役柄のままツッコむタイプのネタで、かつ抜群におもしろかったので、その瞬間に「コントに入ったままでもいいんじゃね?」という勢力も増大した。

小道具を使うな


漫才中に小道具を使わず、基本的に衣装以外の物については、全てマイムで表現するべきという主張である。

2008年M-1グランプリでNON STYLEさんが、M-1中リップクリームを取り出して口に塗るというボケをしたが、その後、松本人志さんがラジオ番組で「NON STYLEが小道具としてリップを使ったのが気になった」と発言した。

その発言を受けてか受けずか、その後M-1で小道具を使う芸人は現れなくなった。

ただTVサイズだと「手紙を書いてきました」とか「日記帳を持ってきたんだけど」みたいなネタも多い。基本的にはM-1のように格式のある大会では適さないというレベル。

しかし、時代を超えてすゑひろがりずさんがツツミを持ちながら決勝へ出場を果たし、かつ評価をされた為、このあたりの認識も少しづつ変化をしているのかもしれない。

SEを使うな

漫才中、SE(曲や効果音)を使うんじゃないという主張だ。

これもやはり、基本的にはM-1のように格式のある大会では適さないというレベル。TVサイズやライブシーンでは結構見かける印象。

漫才コントは、漫才ではない

古参のお笑いファンの中に少数存在する主張。やはり上述の通り「漫才とは”その場で出会った二人の立ち話の延長”が理想である」の概念から、「コントに入る」というスタイルすら邪道という考えだ。

かなり少数派ではあるが、一部確実に存在する。

漫才とコントの違いまとめ

芸人感覚でいうと「マイクの前で2人がしゃべり、抜群におもしろければそれが漫才」という意見が一般的だ。

なので、上述のように「漫才とコントの違い」は「センターマイクがあるかないか」が絶対的な線引きとなっている。その他は、時代や個人の主観によって変化する。

これは松本人志さんの言葉を借りるのであれば、「漫才の定義は基本的にないが、定義をあえて設けることでその定義を裏切ることが漫才。定義をあえて作るが、これは破るための定義。」という事である。

漫才において定義は破られるために存在する訳で、その定義を破いたネタが新たな定義として定着し、またその定義が破られる・・。

漫才とは時代による変化と進化が宿命づけられているものであり、もしかすると、いつの時代か「センターマイクの有無」すら明確な定義ではない時代がくるかもしれない。

その漫才が、抜群におもしろければ。

執筆:吉松ゴリラ

SHUプロモーション所属。宮崎大学大学院主席。もともとコンビで活動していたが、解散後ピンへ転身。「激レアさんを連れてきた。」「新春おもしろ荘」「ガキの使いやあらへんで!」「ウチのガヤがすみません!」など多数出演。