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一度しかない人生、なんでもやってみることで道が開ける(ドロンズ石本さんインタビュー)

インタビュー
公開日:2020年2月19日 更新日:2021年1月5日

執筆:takazawa

電波少年の「南北アフリカ縦断ヒッチハイク」企画で一躍有名に!今ではお笑いタレントとしてだけでなく、俳優やレポーター、店舗経営までマルチに活躍するドロンズの石本さんと今回対談の機会をいただきました!

並河

ドロンズ石本さんプロフィール

生年月日 1973年10月11日
血液型 A型
出身地 広島県
趣味 食べ歩き

ドロンズ・石本さんから、これから芸人を目指す笑まる。読者に激励コメントをいただいています!

ドロンズ石本さんの芸人になったきっかけや、どのようにキャリアを歩まれたのか、苦労された点や大切にされている思いなど、赤裸々にお話いただきましたのでぜひご覧ください。



高校卒業後すぐに東京へ。19歳から本格的に芸人を目指す。

上京してすぐにお笑い芸人になったのですか?

僕はもともと高校で土木科にいたのですが、
卒業した頃叔父に「土木科にいったなら測量士補の資格をとったほうが絶対にいい」と勧められていたので、最初は1年間専門学校に通っていました。上京した当初からお笑い芸人になりたい気持ちはましたが、なれなかった場合も考えて勉強をし1年でまず測量士補の資格を取りました。

資格をとってから、お笑いを本格的に目指されたのですか?

東京に出てきた目的はやっぱりお笑い芸人になることだったので、資格をとるまでの間もお笑いライブに足繁く通いました。広島にはない、東京のお笑いライブというのは新鮮だった記憶があります。

専門学校を卒業する時に、いろいろと就職先を紹介してもらえるわけですが、僕は「お笑いやります」といってそのまま卒業しました。そこからお笑いの道に本格的に進みます。

お笑い芸人になるって決めて、最初はどんな風に行動されたのですか?

いやー、最初はやっぱり何をしていいかわからないですよね(笑)本屋さんに行って、オーディション情報が載った雑誌を見あさりました。そこでたまたま、渡辺正行さんの主宰している劇団七曜日がオーディションをやるっていう情報を見つけまして、それに応募したのがこの世界に入る最初の一歩目でした。
オーディションで無事受かることができ、1年半くらい劇団七曜日に所属していました。ただ、オーディション受けるまではよくわかりませんでしたが劇団はお芝居がメインでした。やっぱりお笑いやりたいなという思いがあり、渡辺正行さん主宰の渋谷ラ・ママというお笑いライブのお手伝いもやらせてもらっていました。

再現VTRで仕事が本格化。相方を見つけ、お笑いに専念。

お笑いをスタートするためにまずオーディションを受けられたんですね。最初の頃の仕事というのはどういったものだったのでしょうか?

初めてテレビに出たのは、確か再現VTRの仕事だったと思います。劇団七曜日の若手として、そういった仕事をふっていただくことがありました。

まぁギャラは3,000円くらいだったんですけど(笑)でもテレビに出れた、舞台に立てたっていうんでこの頃はトントン拍子に進んでいくように感じて楽しかったのを覚えています。

お笑い芸人になりたいのに劇団に入ることになって、不満や後悔はなかったのでしょうか?

当時は正直、お芝居やりながらもお笑い芸人やりたいなーって思ってました。で、そのことをラサール石井さん伝えたら、ものすごい怒られまして(笑)お笑いやりたいのはわかるけど、お笑いもお芝居の一部なんだから、ちゃんとやらないとって。


今だったらわかるんですけどね。当時はまぁ、若いのもあったから、「お芝居なんて」って思ってた自分もいましたね。

劇団に入った経験は、今となっては良かったと思いますか?

良かったと思います。今でもそうゆう気持ちは変わらないのですが、まずやっぱりやってみることが大事。お笑いやりたいからっていう理由で足踏みしていたら、何も経験できなかったと思う。

お芝居というすこち違うジャンルではあったけど、行動したからこそ、テレビに出る経験もできたし、お笑いに通じるお芝居を学ぶことができました。

最初は劇団からスタートし、後にお笑い芸人の道に進まれたということですね。どのように方向転換されたのでしょうか。

劇団に所属して1年半くらいして、別でお笑い事務所が立ち上がるという話になりまして、当時の社長に「お笑い事務所にくるか?劇団に残るか?」と決断を迫られることになりました。

当時組んでいた相方は劇団に残る選択をし、解散することになりました。
一人になって悩んでいる時に、古坂大魔王さん、まぁピコ太郎さんですね、ピコ太郎さんに相方を紹介してやると言われ、会ってみたのが後にドロンズとしてコンビを組む大島でした。

結局僕は劇団をやめ、誘われたお笑い事務所にも所属せず、大島と二人でやっていこうと決めました。

前説と売り込みでチャンスを掴む。電波少年「南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク企画」

劇団をやめてコンビを組まれた後はどのような活動をされていたのでしょうか?

お笑いライブのオーディションをたくさん受けました。その中の一つに、マセキ芸能社が主催するお笑いライブがあって。

そこで、ウッチャンナンチャンを育てた青木さんという偉い方にたまたま出会いまして、舞い上がってたのかなんなのか「お笑いライブの前に前説をやらせてください!」と自分らを売り込んだんですね(笑)そしたら、その姿勢をかっていただいて「ウチにきなよ」と言っていくれて、それでマセキ芸能社に入ることになったんです。

マセキ芸能社に入ってからはどんな生活が待っていたのでしょうか?

マセキに入ってからは、いろんな番組のオーディションを受けていました。いくつかテレビ番組にも出させてもらっています。7ヶ月くらい経って、電波少年のオーディションの話が舞い込んできて、参加したところ一次審査を通過しました。

一次を通過したお笑いグループは5組いたのですが、その中の1組が猿岩石さんで。結果二次審査の時に、猿岩石さんが受かり、そのほかの3組は電波少年インターナショナルと海外版でロケにいかせてもらえることになりました。

僕らは本審査には落ちてしまいましたが、電波少年の前説をやらせてもらえることになりました。


前説からスタートされたんですね。そこから、なぜ南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク企画と言う大きなコーナーに抜擢されたのでしょうか?

せっかく毎週番組前に前説の機会をもらったので、前向きに自分たちらしく元気に取り組んでいました。

その頃、テレビ局の方も猿岩石さんのヒッチハイク企画がとても受けたので、第二弾の企画を進めていたようです。そこで、テレビ局側が僕らの前説を思い出してくれて「彼らなら猿岩石とは違った旅をやってくれるんじゃないか」と思ってくれたみたいです。

僕らが知らない間に事務所とテレビ局側の話が進んでいて、気づけば僕らのスケジュール1年分渡されていました(笑)もう好きに使ってくれってことなんでしょうね。

自分の知らないところで1年分スケジュール渡されるってすごいですね(笑)他にも裏ストーリーがあったりするんですか?

そういえば、電波少年に出る前は僕らはドラッグっていうコンビ名で活動してたんですよ。ただ、これがアメリカの受けが悪いと。
それで、事務所から急にコンビ名を変えるように言われまして、なんでかわかんなかったんですけど。ドから始まる四文字の単語を、適当に並べていて、どれにしようかなーなんて考えてたら、たまたま南原さんが通りかかって。

で、「これがいいんじゃない?」って言ってくれたのがドロンズで、そのままコンビ名をドロンズにしました。僕らのコンビ名の名付け親は南原さんということになります。

やりたいことは人に伝える、そうすることで実現への近道になることも

電波少年で一躍有名になりましたが、その後はどのような活動をされていたのでしょうか?

自分にとってターニングポイントとなる出来事なんですが、ヒッチハイク企画の後に相方との解散を経験することになります。

その後はピンで活動することになるのですが、1年半くらいは相方がいない喪失感のようなものを感じていました。というのも、お笑いコンビって、何かにつけて相方に相談したり、話し合ったりが普通なんですよ。でも、それができなくて塞ぎ込んでいました。

そのような状況から、どのように復帰なされたんですか?

相方がいなくなって、気持ちを共有することができなくなったことを、社長に相談したんです。そしたら、「相方の代わりにマネージャーに相談したらいい」と言ってくれて。

今までマネージャーをそんな風にみたことはなかったのですが、マネージャーを相方だと思ってなんでも相談するようにしました。
あれやりたい、これやりたい、ドラマもやってみたい、いろんなことをマネージャーに伝えていました。

すると不思議なことに、お笑い以外の道も見えてきました。実は初めてドラマ出演の話が来たのも当時のマネージャーが売り込んでくれたおかげなんです。


マネージャーさんにいろいろ伝えることが、活動の幅を広げるきっかけになったということでしょうか?

そうだと思います。そこからいろんな仕事を受けるようになりました。ドラマやレポーター、お芝居、お笑い以外にも活動の幅が広がりましたね。

僕、なんでもマネージャーにいいますもん。僕、焼肉屋を経営しているんですけど、それも最初マネージャーにいいました。「おれ、店やろうと思う」って。マネージャーの方は「なんで!?」って感じでしたけどね(笑)

マネージャーに限らず、積極的にやりたいと伝えることでチャンスが舞い込むことって結構ありましたね。それこそ、青木さんにマセキへ誘っていただいたのも、僕らが自分から「前説やらせてください!」と言ったからですからね。

笑まる。読者へ「まず、やってみることが大事。」なんでもやるのがドロンズ石本さんのスタイル

お笑い芸人になってよかったと思うことはなんですか?

人に声をかけていただけるのが嬉しいですね。しかも、俳優さんだったりタレントさんに比べて、お笑い芸人って声かけやすいじゃないですか。
心地いい言葉を言われるように頑張ろうと思えますよね。


お笑い芸人として長く活動されていますが、芸人のやりがいってなんですか?

お笑い芸人は人を明るくするのが一番のやりがいだと思います。それが仕事ですから。

また、仲間同士で協力しあえるのも魅力です。スポーツのバレーに似ていて、誰かがレシーブをして、それを拾って誰かがトスをあげ、そのままアタックするようなイメージ。
その空間にいる芸人たちが互いに息を読みあい、掛け合いの中でその場を作っていくのもやりがいの一つだと思います。

これからお笑い芸人を目指される方に向けてメッセージをお願いします。

やってみたいこと、一緒にやりたい人、行ってみたい場所、なんでも挑戦してみることが大切です。そして周りを見渡せば、応援してくれる人や、やりたいことを共有できる人と出会えるはずです。

この時代でよかった、この時代にお笑い芸人を目指せてよかったと思うはずです、ほんとーっに楽しいです。
まずは一歩、半歩でも踏み出してみてください!

ドロンズ石本さん、本日は本当にありがとうございました!

インタビュアー:
部屋まる。代表 並河

まずはじめに感じたのは「石本さんの行動力・バイタリティは凄まじな」ということ。
再現VTRの仕事が契機となりテレビに出演されるようになったのはなんと21歳。一見遠回りに思えた劇団での経験がそこにいきたそうです。
そして一躍有名になった電波少年のヒッチハイク企画。そこまで至る経緯にも、何事も挑戦される石本さんならではのストーリーがありました。その後も芸人としての活動を精力的に行いつつ、レポーターやお芝居、ドラマなど活躍の幅を広げ、さらには焼肉店の経営もご自身でされています。

私が個人的に印象に残ったのは、そう言った芸能人としての勢いだけではなく、お話の節目節目で周囲の方の存在が垣間見えたことでした。
若い頃に面倒をみてくれた先輩、相方について、マネージャーについて、「彼らのおかげで今がある」といった感謝の言葉を口にされていました。周囲の方をとても大切にされている方なんだなと素直に感動しましたし、そのような人間としての魅力が周囲に働きかけ、結果としてさまざまな機会に恵まれているようにも思いました。